「言語化がすごい」「言語化力が高い」
最近、やたらとこの言葉を見かけるようになった。
SNSでも、ビジネス書でも、noteでも。誰かの投稿に「言語化してくれてありがとう」とコメントがつき、「言語化力」がスキルとして持ち上げられる。
でも、ずっと引っかかっていたことがある。
本当に言語化が得意な人は、「言語化」という言葉を使わないのではないのか?
呼吸が得意な人はいない
考えてみてほしい。「私、呼吸が得意なんです」と言う人がいたら、ちょっと変だ。
呼吸は、できて当たり前だから名前をつけて誇る対象にならない。意識しないでやれることを、わざわざ「スキル」として語る必要がない。
言語化も同じだと思う。
本当に言葉を扱える人は、呼吸するように考えを言葉にしている。朝起きて歯を磨くように、見たものを文章にしている。そこに「言語化」なんてラベルは要らない。
つまり、「言語化」という言葉が必要な時点で、まだそこに到達していないということではないのか。
「言語化」はバズワードになった
「言語化」は2024年の三省堂「今年の新語」大賞に選ばれた。書店に行けば、タイトルに「言語化」を冠したビジネス書がずらりと並んでいる。
編集者の編集Lily氏は、noteの記事でこう書いている。
もはや常套句と化したその流行語を深く考えもせずに使っている時点で、「言語化」以前の思考停止を起こしているのではないか?
常套句は、考えなくても使える便利な言葉だ。でも、考えなくても使える言葉は、考えた結果としての言葉ではない。「言語化」と言った瞬間に、その人はむしろ言語化をサボっている。
2026年3月には糸井重里氏がXで、「言語化力すごいです」式の安易な称賛に疑問を呈し、大きな議論になった。
「言語化してくれてありがとう」の正体
批評家の福尾匠氏は、朝日新聞のインタビューで興味深い指摘をしている。
「あなたの言語化能力はすばらしいですね」という褒め方は、「私も同じようなことを思っていたんだけど、私よりも先にあなたが言葉にしましたよね」ということだと思う。
つまり「言語化してくれてありがとう」は、「あなたの独自の視点が素晴らしい」ではなく、「みんなが思っていることを代弁してくれた」という意味になっている。
これは共感のようでいて、実は没個性だ。みんなが同じことを思っている前提で、それを最初に口にした人を褒める。福尾氏はこれを同調圧力の表れだと言う。
本来、言葉にする力とは、他の誰とも違う自分の視点を、自分だけの言葉で伝えることのはずだ。「みんなが思っていること」を上手に言い当てるのは、言語化ではなくコピーライティングに近い。
本当の書き手は、言葉に絶望している
作家の安部公房はこう書いた。
けっして、気取りなどから言っているわけではなく、まず言語表現にたいする不信と絶望を前提にしなければ、作品に自己の全存在を賭けるなどという無謀な決意も、生れてくるわけがないのである。
言葉で生きている人ほど、言葉の限界を知っている。どれだけ精緻に書いても、頭の中にあるものの半分も伝わらない。その絶望を抱えながら、それでも書く。
「言語化力すごいですね!」と気軽に言い合う世界は、この絶望から最も遠い場所にある。
じゃあ、何と言えばいいのか
「言語化」を使わずに、人の文章を褒めてみる。
「この表現、ずっと引っかかってる」
「読んでから、見え方が変わった」
「こういうふうに書けるのか、と思った」
どれも、「言語化すごい」より具体的で、相手の文章に対する敬意がある。褒め言葉を言語化すること自体が、言語化の練習になる。
まとめ
「言語化」という言葉は便利だ。便利すぎて、思考停止の隠れ蓑になっている。
本当に言葉を扱える人は、「言語化」なんて言わない。呼吸するようにやっているから。
そして、本当に言葉を扱おうとしている人は、言葉の無力さを知っている。
「言語化」と言いたくなったとき、一度立ち止まって、自分の言葉で言い直してみる。
それが、言語化の第一歩だと思う。











